ながら


「~しながら」というのが好きだ。

元来自分はせっかちで落ち着きがなく、
そのため、出不精なくせに常に何かをしていたいという気持ちを強く持っている。

そうなってくると「~しながら」が発動する。
「~しながら」は集中できず散漫になるといったデメリットもありそれは重々承知しているが、好きなので仕方がない。
マルチタスクのようなかっこいいものではなく、繰り返すが落ち着きが無いだけだと思っている。

そんな自分に合っている媒体が「ラジオ」になる。

映像があると、「~しながら」があまり成立しなくなる。
つまり映像が勝ってしまうのだ。

では音楽はどうだろう。

音楽はとても好きだ。周りの方に負けないくらい音楽は聴いてきた。
しかし私にとっては音楽も「~しながら」となると少し重い。
思想や感情が多分に入ってしまう。

これは遡ると、小学生の時に8cmシングルCDをTSUTAYAで借りて、
歌詞カードを自作の歌詞ノートに写すくらい演者の気持ちをトレースしたいと考えていたところに
由来しているのかもしれない。

要は、音楽を聴いていると音楽しか聴くことしかできなくなってしまうのである。
(インストゥルメンタルやオルゴールは眠くなるため不可)
これでは同時に洗濯物は畳めないのである。
ハンガーをドラムスティックに見立て、バシバシと床を叩き、
家内から叱責されるのが関の山だ。

本や雑誌は勿論「~しながら」とはかけ離れたところにある。
(最近はオーディオブックもあるが、音楽同様難しい)


そこで「ラジオ」である。

本当に良い意味で、右から左に音が抜けていく。
たまに自分にとって金言のようなことをラジオが発していても、
10分後には忘れてしまっている。
そのくらいの距離感、そのくらいの近接具合がたまらないのだ。

これは自分が聴いているラジオ番組が、すぐに忘れてしまっても
今後の人生に1ミリも影響がないからなのかもしれないと考えたことがある。
所謂「どーでもいいこと」

しかし、そうではないと最近感じている。
言葉では現すことが難しいが、なんだかラジオで聴いていることが
自分にとっての血肉となっているような感触がある。
ラジオの「言葉」や「空気感」が自分に染み付いていて、
無意識のうちにアウトプットしているような感覚。

ラジオは当然映像がないため、演者は音声のみで状況を伝えることになる。
そうすると自然に演者は言葉を選んで発言する。

ここに「他者への思いやり」みたいなものを感じる。
普通に話しても伝わらなさそうだからここで重さや色や例えを出してみたり、
あえて1テンポ遅らせて発言してみたり。
聴く人(他者)に可能な限り寄り添う、また時として
あえて聴く人を置いてきぼりにする、というテクニックも。
このあたりが、ラジオを聴くことで自分の中に備わったものなのではないか、と推測する。
しかも、洗濯物を畳みながら。


話を広げてしまったが、
「~しながら」はぜひラジオをオススメしたい。

今は、何時でも何処でも聴ける。いい時代だ。